趣味と誇り


今日、岡田斗司夫の「オタクはすでに死んでいる」(新潮新書)を買ってきました。

最近は結構バッシングを受けている岡田斗司夫ですが、
さすがにオタキングを名乗るだけあって確かに間違ったことは書いていませんでした。
内容は最近のオタクは明らかに変質してきておかしくなってきたがそれも認めようというものでした。
そこでこれまでのオタクは自分の趣味を他人に認めさせるための知識と社交性と常識を少なくとも持っていたとかかれています。


さて、自分はよく

「何でお前はそんなにオープンで楽しそうなオタクでいられるんだ?」

といわれます。
そのとき自分はいつもこういいます。

「自分の好きなものを誇れなくてどうする。」

実はこのことに気づいたのは数年前です。 それまではやはりオタクというのは社会的には非生産的であるし、
さげすまれてもしょうがないと思っていました。
しかし、これもひとつの単なる趣味であると考えてから変わりました。
そしていくつか上の言葉に対して付け加えます。 「誰でも趣味については広めたい心があるし、
同じ趣味を見つけたらうれしい。
だから他の趣味と同じくらいに広めてもいいと思うがそれ以上はしないほうがいい。

ただ押し付けと価値の決めつけだけはするな。」
これはあくまで他の趣味と同じであること、自分の趣味を認めてもらうためには他のものも認めればならないということです。
最後に、もうひとつ

「自分の趣味を貶めないように、
最低限認めてもらうように、
社会の常識を知ったうえで行動すべきであってむやみに破らないようにしよう。」


これは行動できる幅を狭めないようにしてほしいということでもあります。
どうしてもこの社会で生きている以上、最低限の当たり前は守らなくてはなりません。
守れない場合にはそれに対抗できるほどの理由と覚悟がなければ認められません。

要するにいいたいことは簡単なことで

・好きなことには誇りを持とう

・そのために社会に認められるよう努力しよう

・だからある程度の知識や思考は必要不可欠


ということです。

このことを考慮したうえで、どこまで社会に提示して、どこまで身内のなかでやるかを考えながら最高の「楽しい」を模索していけたらなと思います。




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